愛する人が亡くなってしまったら、あなたはどうしますか?
日本神話の神イザナギは、妻イザナミを取り戻すために、死者の世界へと旅立ちました。
しかし、そこで彼が目にしたのは、決して見てはいけない恐ろしい姿だったのです。
この記事では、日本最古の神話に登場する死者の世界「黄泉の国」について、その場所や特徴、悲しい物語を詳しくご紹介します。
概要

黄泉の国(よみのくに)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する死者の世界です。
地下にある暗黒の国とされ、死んだ人は誰でもこの国に行くと考えられていました。
「黄泉」という文字自体は、中国の古典『春秋左氏伝』や『史記』などに見られる漢語からの借用です。日本では「ヨミ」または「ヨモ」と読まれていたとされています。
黄泉の国は、仏教の地獄のように罪をつぐなう場所ではありません。善人も悪人も、死んだ人は皆この国に向かう、ただ暗くて汚れた場所だったんです。
現世である葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、黄泉比良坂(よもつひらさか)という坂で区切られていました。
イザナギとイザナミの悲しい物語
黄泉の国が最も有名に登場するのが、国生みの神イザナギ(伊邪那岐命)とイザナミ(伊邪那美命)の物語です。
国生みと神産み
最初、イザナギとイザナミの二柱の神は、天の浮橋に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)で海をかき混ぜました。
矛の先から滴り落ちる雫が島となり、こうして日本列島(大八洲)が生まれたんです。
その後、二柱は多くの神々を生み出しました。
主な神々の誕生
- 海の神
- 風の神
- 山の神
- 木の神
- 船の神
つまり、海に風が吹き、山に木が育ち、川に船が行き交うようになったということなんですね。
イザナミの死
しかし悲劇が起こります。
イザナミが火の神カグツチ(軻遇突智)を産んだとき、火傷を負って亡くなってしまったのです。
『古事記』によれば、イザナミの亡骸は出雲と伯耆(ほうき)の境にある比婆山に葬られました。一方、『日本書紀』の一書では紀伊の熊野の有馬村に葬られたとされています。
黄泉の国への訪問
妻を失ったイザナギは、イザナミに会いたい一心で黄泉の国へと向かいました。
黄泉の国の入口でイザナミと再会したイザナギは、妻を連れ帰りたいと願います。
するとイザナミはこう答えました。
「私はもう黄泉の食べ物を食べてしまったので戻れません。でも、黄泉神と相談してみますから、それまで決して私を見ないでください」
禁忌を破る
しかし、長い間待たされたイザナギは、一つ火(ひとつび)を灯して中を覗いてしまったのです。
そこで彼が見たのは、体中にウジ虫がたかり、八雷神(やくさのいかづちのかみ)が生じた、変わり果てた妻の姿でした。
逃走と追跡
恐怖に駆られたイザナギは逃げ出します。
恥をかかされたと怒ったイザナミは、追手を差し向けました。
黄泉の国の追手
- 予母都志許売(ヨモツシコメ):黄泉の醜女たち
- 八雷神(やくさのいかづちのかみ):イザナミの体から生じた雷神たち
- 千五百の黄泉軍:1500人の黄泉の軍勢
イザナギは逃げながら、追手を妨害します。
まず黒御縵(くろみかずら)(髪飾り)を投げつけると山葡萄が生え、ヨモツシコメはそれを食べている間に足止めされました。
次に湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を投げると、今度は筍(たけのこ)が生えて、また足止めに成功しました。
千五百の黄泉軍が追いかけてきたときは、黄泉比良坂の坂本にあった桃の実を投げつけて撃退したんです。
永遠の別れ
最後にイザナミ自身が追ってきました。
イザナギは千引の岩(ちびきのいわ)という巨大な岩を黄泉比良坂に引いて道を塞ぎました。
岩を挟んで、二柱は最後の会話を交わします。
イザナミ:「愛しい人よ、こんなことをするなら、私は一日に千人の人間を殺しましょう」
イザナギ:「愛しい人よ、それなら私は一日に千五百の産屋を建てて、千五百人を産ませましょう」
こうして、死と生の関係が決まったとされているんです。
この後、イザナミは黄泉の国の主宰神となり、黄泉津大神(よもつおおかみ)または道敷大神(ちしきのおおかみ)と呼ばれるようになりました。
禊と新たな神々の誕生
黄泉の国から戻ったイザナギは、汚れを落とすために水で禊(みそぎ)をしました。
この禊ぎから、重要な神々が生まれます。
禊から生まれた三貴子
- 天照大神(あまてらすおおみかみ):左目を洗ったときに生まれた太陽の神
- 月読命(つくよみのみこと):右目を洗ったときに生まれた月の神
- 須佐之男命(すさのおのみこと):鼻を洗ったときに生まれた海の神
死と汚れから新しい命が生まれる。これは世界中の古代神話によく見られるテーマなんですね。
黄泉の国の場所
黄泉の国は地下にあると考えられていました。
暗黒の世界
『古事記』には「一つ火をともして入り見ます時に」、『日本書紀』には「一片之火(ひとつび)をともして視そなわす」とあります。
つまり、イザナギは火を灯さなければイザナミの姿を見ることができなかったんです。このことから、黄泉の国はまったくの暗闇だったことが分かります。
地下の国
『延喜式』の鎮火祭祝詞では、黄泉の国を下津国(したつくに)と呼んでいます。
『万葉集』にも「したつび」と詠んだ例があり、明らかに地下の国と考える信仰があったことが分かります。
ただし、本居宣長の『古事記伝』に始まる「地下世界説」と、松村武雄や神野志隆光などの「水平方向にある別世界説」に分かれており、位置関係については学説が分かれているんです。
出雲との関係
『古事記』は黄泉比良坂について「今の出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と思う」と記しています。
『出雲国風土記』には、意宇郡の夜見嶋や出雲郡の黄泉之坂・黄泉之穴の記録があります。
出雲国風土記の黄泉の穴
出雲郡の那賀郷には磯の窟(いわや)という洞窟があり、その中に深さの分からない穴があったそうです。
夢の中でこの磯の窟のあたりに至る者は必ず死ぬとされ、古くから「黄泉の坂」「黄泉の穴」と呼ばれていました。
この洞窟は、現在の島根県出雲市猪目町にある猪目洞窟に比定されています。1948年の発掘調査では、弥生時代から古墳時代にかけての人骨や副葬品が発見されました。
古代の人々は、出雲国のどこかに黄泉の国への入口があると考えていたようなんですね。
黄泉比良坂
黄泉比良坂(よもつひらさか)は、現世と黄泉の国の境界にある坂です。
『古事記』では「黄泉比良坂」、『日本書紀』では「泉津平坂」または「泉平坂」と表記されています。
坂の意味
「ひら」は断崖絶壁のような崖を意味するという説があります。
また、「ひら」は縁(へり)であり境界を意味するという説、斜面上の坂を意味するという説もあります。
「坂」についても、傾斜地としての坂ではなく「境」の意味であるとする説もあるんです。
現在の伝承地
島根県松江市東出雲町揖屋には、黄泉比良坂の伝承地があります。
1940年に佐藤忠次郎によって石碑が建立され、近くには「千引きの磐座」と呼ばれる岩があります。
近くには、イザナミを祀る揖夜神社もあるんです。
また、松江市岩坂の小麻加恵利坂にも、イザナギが雷神に桃の実を投げたという伝説が残っています。
黄泉の国の住人たち
黄泉の国には、様々な神や存在が住んでいました。
黄泉津大神
イザナミが黄泉の国の主宰神となり、黄泉津大神と呼ばれるようになりました。
また、須佐之男命が下った根の国と黄泉の国を同一視する考えでは、イザナミの次に須佐之男が黄泉津大神になったともいわれます。
ヨモツシコメ
予母都志許売(ヨモツシコメ)は、黄泉の国の醜女(しこめ)たちです。
別名を泉津日狭女(よもつひさめ)ともいいます。
イザナミの命令でイザナギを追いかけましたが、投げられた髪飾りから生えた山葡萄や、櫛から生えた筍を食べている間に、イザナギに逃げられてしまいました。
八雷神
イザナミの変わり果てた体に生じた八つの雷神です。
黄泉の国の番人のような働きをしていました。
黄泉軍
千五百の黄泉軍(よもついくさ)は、イザナギを追いかけた黄泉の国の軍勢です。
桃の実によって撃退されました。
その他の神々
『古事記』には、他にも黄泉の国に関係する神々が登場します。
- 黄泉戸大神(よもつちもりのかみ):黄泉の国の要所を守る神
- 速玉之男神(はやたまのおのかみ):「唾く神」とされる
- 事解之男神(ことさかのおのかみ):「掃う神」とされる
興味深いことに、黄泉津大神以外には「命(みこと)」の尊称がつけられていません。これは、死者の国の神々に対する当時の人々の複雑な態度が反映されているんです。
桃の魔除けの秘密
イザナギが千五百の黄泉軍を撃退したのは、桃の実でした。
なぜ桃なのでしょうか?
道教の影響
桃が魔除けに使われたのは、道教が影響しているといわれています。
中国三大宗教の一つである道教では、桃は魔除けや不老不死の効能があるとされる神聖な果物でした。
日本に桃がもたらされた8世紀初頭、最新の中国思想が取り入れられ、神話にも反映されたと考えられているんです。
意富加牟豆美命
イザナギは桃の実に対して、「葦原中国にいる青人草(あおひとくさ)(人々のこと)が苦しんでいるときは助けるように」と告げ、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という名を与えました。
桃は単なる果物ではなく、神として扱われたんですね。
世界の神話との類似
実は、イザナギとイザナミの物語に似た神話が、世界各地に存在します。
ギリシア神話のオルフェウス
最も有名なのが、ギリシア神話のオルフェウスの物語です。
オルフェウスとウリュディケの物語
- 琴の名手オルフェウスは、死んでしまった妻ウリュディケを取り戻したいと願った
- 冥府の神ハデスに琴を奏でて懇願
- 「冥界から出るまで決して振り返ってはならない」という条件で承諾を得た
- オルフェウスは後ろにウリュディケを従わせて出口を目指した
- しかし、不安に駆られて振り返ってしまった
- ウリュディケは再び冥界に引き戻された
「見てはいけない」という禁忌を破ってしまい、愛する人を失う。この構造は、イザナギとイザナミの物語と驚くほど似ていますね。
普遍的なテーマ
死者の国への認識や、禁忌のモチーフは、世界共通の普遍的なテーマなんです。
人類が古代から持っている、死に対する恐れや、失った人への思いが、似たような物語を生み出したのかもしれません。
まとめ
黄泉の国は、日本神話における死者の世界で、イザナギとイザナミの悲しい別れの舞台となった場所です。
重要なポイント
- 地下にある暗黒の世界で、死者は誰でもこの国に向かう
- 仏教の地獄のような罰の場所ではなく、ただ暗くて汚れた国
- 黄泉比良坂という坂で現世と区切られている
- 出雲国に黄泉の国への入口があると考えられていた
- イザナギとイザナミの物語が最も有名な伝承
- 「見てはいけない」という禁忌を破ったことで永遠の別れとなった
- 桃は魔除けの力を持つ神聖な果物として登場
- 死から新たな命が生まれる再生のテーマ
- ギリシア神話など、世界各地に似た物語が存在する
黄泉の国の物語は、古代日本人の死生観や、失った人への思いを表しています。暗く恐ろしい場所でありながら、そこから太陽の神・天照大神が生まれるという再生の希望も含まれているんですね。


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