【ローマの厳格な守護者】大カトー(マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス)とは?その生涯・功績・伝説をやさしく解説!

神話・歴史・伝承

「カルタゴ滅ぶべし!」

元老院での演説のたびに、この言葉を繰り返した頑固な老政治家がいました。

それが、今回ご紹介する大カトーです。平民の出身でありながら、執政官や監察官といった最高位の公職に就き、ローマの伝統と美徳を守り抜こうとした人物なんです。

この記事では、古代ローマで最も厳格で保守的な政治家として知られる大カトーの生涯と功績について、詳しくご紹介します。

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概要

大カトー(マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス)は、紀元前234年から紀元前149年に生きた共和政ローマ中期の政治家です。

平民(プレブス)の家系出身でありながら、弁舌と軍功によって出世し、執政官(コンスル)と監察官(ケンソル)という最高位の公職を務めました。

基本データ

  • 生没年:紀元前234年~紀元前149年(享年85歳)
  • 出身地:トゥスクルム(現在のイタリア・ラツィオ州)
  • 主な役職:執政官、監察官、大神祇官
  • 通称:「大カトー」「ケンソル(監察官)・カトー」

「大カトー」という呼び名は、曾孫の小カトー(マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス)と区別するためにつけられたものなんですね。

偉業・功績

大カトーは軍人としても政治家としても、数々の功績を残しています。

軍事的功績

ヒスパニア遠征での勝利

紀元前195年、執政官としてイベリア半島(現在のスペイン)に遠征したカトーは、現地の部族を次々と平定しました。

主な戦果:

  • エブロ川流域を完全に制圧
  • 反乱を繰り返していた部族を鎮圧
  • 4万人以上を討ち取ったとされる
  • ローマに凱旋式を挙げる栄誉を得た

カトーの戦い方は冷酷でしたが、同時に規律正しいものでした。遠征中、自分は3人の奴隷しか連れず、一般兵士と同じ食事をとったといいます。

政治的功績

監察官としての厳格な改革

紀元前184年、カトーは監察官に選出されました。監察官というのは、元老院議員の資格審査や公共事業の管理を行う重要な役職です。

カトーが行った主な改革:

  • 元老院の浄化:7名の元老院議員を資格剥奪
  • 贅沢品への重税:女性の装飾品や高価な奴隷に高税率を課した
  • 公共事業の見直し:税収請負人の契約を厳しく精査
  • 水道の整備:公共の水道を修理し、違法な水の引き込みを取り締まった

特に有名なのが、ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスという元老院議員の追放です。彼が執政官時代に権力を濫用して無実の人を処刑したという理由で、カトーは容赦なく追放したんですね。

「カルタゴ滅ぶべし」の主張

カトーの最も有名な功績(あるいは執念)は、カルタゴの滅亡を訴え続けたことでしょう。

紀元前153年、カルタゴとヌミディアの紛争調停のため派遣されたカトーは、復興しつつあるカルタゴの繁栄を目の当たりにしました。そして元老院に戻ると、あらゆる演説の最後に必ず「それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである」と付け加えたといいます。

ある時は、カルタゴ産の見事なイチジクを元老院で見せて、「これほど素晴らしい果実を産する国が、わずか3日の船旅の距離にある」とローマへの脅威を訴えました。

カトーの死後、第三次ポエニ戦争が勃発し、紀元前146年にカルタゴは完全に滅ぼされることになります。

系譜

大カトーの家系について見ていきましょう。

出自

カトーは、トゥスクルム出身の平民(プレブス)の家系でした。

当時のローマ社会では、貴族(パトリキ)が政治を独占していたため、平民が最高位の公職に就くのは非常に困難だったんです。こういった平民出身で初めて執政官になった人を「新人(ノウス・ホモ)」と呼びました。

家族

カトーの父も武勇で知られた人物で、約150ユゲラ(約12万坪)の土地を息子に残しました。

結婚と子孫

  • 紀元前192年頃、リキニウス氏族の娘リキニアと結婚
  • 長男マルクスが生まれる
  • 妻と長男の死後、高齢で奴隷の女性サロニアと再婚
  • 次男サロニウスが生まれる

興味深いことに、この家系は続き、曾孫に小カトー(マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス)が生まれます。小カトーもまた、共和政ローマの伝統を守ろうとした保守派の政治家として有名になりました。

姿・見た目

大カトーの外見的特徴について、古代の記録から分かることをご紹介します。

身体的特徴

  • 髪の色:赤みがかった髪
  • 瞳の色:青みがかった瞳
  • 体格:労働に耐えうる頑健な体つき

プルタルコスの記述によれば、カトーは「鉄のような心と体」を持ち、老年になってもその強さは衰えなかったといいます。

なんと86歳で裁判で自身を弁護し、90歳近くになっても公的な場で演説を行っていたというから驚きですね。

生活スタイル

カトーの質素な暮らしぶりも、ある意味で彼の「見た目」を形作っていました。

日常の様子:

  • 農場では自ら畑仕事に汗を流した
  • 農夫と同じ皿から食事をとった
  • 簡素な服装を好んだ
  • 派手な装飾品を身につけなかった

この質素な生活態度は、彼の政治信条そのものだったんです。

特徴

大カトーの性格と能力について、詳しく見ていきましょう。

性格の特徴

厳格さと公明正大

カトーの最大の特徴は、その徹底した厳格さでした。

  • 自分にも他人にも厳しい
  • 公金の無駄遣いを一切許さない
  • 汚職とは完全に無縁
  • 法と正義を何よりも重視

プリニウスの記録によれば、カトーは生涯で44回以上も訴えられましたが、すべての裁判で勝訴したといいます。これは当時としては驚異的な記録なんですね。

質素倹約の精神

カトーは贅沢を嫌い、質素な生活を理想としました。

若い頃、近所にサムニウム戦争の英雄マニウス・クリウス・デンタトゥスの別荘があり、カトーはそこを何度も訪れては、彼の質素な暮らしぶりを見習ったといいます。

能力の特徴

卓越した弁舌の才能

カトーは古代ローマ屈指の雄弁家として知られていました。

弁論家としての特徴:

  • 簡潔で力強い言葉遣い
  • 聴衆を説得する強い説得力
  • 150以上の政治演説を残した
  • 後の弁論家たちの手本となった

キケロは、カトーを「弁論の黎明期の光」と評しています。

反ギリシア文化の立場

カトーは、当時ローマに流入していたギリシア文化に強く反対しました。

ローマの伝統を重視したカトーにとって、ギリシア風の生活様式や思想は、ローマ人の質実剛健な精神を堕落させるものだったんです。

特に、ギリシア風の贅沢な生活を好んだ大スキピオとは、この点で激しく対立しました。

ただし、興味深いことに、カトーは晩年になってギリシア語を学んだという記録もあります。彼の演説にはギリシアの修辞学の影響も見られるため、実は早い時期からギリシア語に通じていたのではないかと考える学者もいるんですね。

農業への深い理解

カトーは農業に関する専門知識を持ち、『農業論(De agri cultura)』という著作を残しています。

これは現存する最古のラテン語散文作品の一つで、農場経営の実践的なノウハウが詰まった貴重な資料なんです。

伝承

大カトーにまつわる有名なエピソードをご紹介します。

スキピオとの対立

カトーの政治生活で最も有名なのが、救国の英雄スキピオ・アフリカヌスとの対立です。

スキピオは第二次ポエニ戦争でハンニバルを破った大英雄でしたが、カトーから見れば問題だらけの人物でした。

カトーがスキピオを批判した理由:

  • ギリシア風の贅沢な生活様式
  • 兵士への気前の良すぎる報酬
  • 元老院の権威を軽視する態度
  • 公金の使い方が不透明

紀元前187年、カトーはスキピオの弟ルキウスを戦費横領の罪で告発。さらに紀元前185年には、スキピオ・アフリカヌス本人も賄賂を受け取った疑いで告発されました。

結局スキピオは政界を引退し、田舎の別荘で失意のうちに亡くなります。奇しくも、スキピオの宿敵ハンニバルも同じ年に自害したんですね。

「カルタゴ滅ぶべし」の執念

紀元前153年、85歳になったカトーはカルタゴに派遣されました。

そこで彼が目にしたのは、第二次ポエニ戦争の敗戦から復興し、再び繁栄しつつあるカルタゴの姿でした。

帰国したカトーは、元老院にカルタゴ産の新鮮なイチジクを持ち込みました。そして「このように素晴らしい果実を産する豊かな国が、ローマからわずか3日の船旅の距離にあるのだ」と脅威を訴えたといいます。

以後、カトーはあらゆる演説の最後に、話題が何であれ必ず「それにしても、カルタゴは滅ぼされるべきである(Ceterum censeo Carthaginem esse delendam)」という言葉を付け加えました。

この執念は、カトーの死後に実を結びます。紀元前149年に第三次ポエニ戦争が始まり、紀元前146年にカルタゴは完全に破壊されたのです。

監察官としての厳格な裁き

紀元前184年、監察官に就任したカトーは、容赦ない粛清を行いました。

フラミニヌス兄弟の追放

最も有名なのが、マケドニアを征服した英雄ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスの弟、ルキウスの追放です。

ルキウスは執政官時代、愛人のために罪のない人を処刑したとされました。カトーは元老院でルキウスを激しく弾劾し、結局ルキウスは元老院議員の資格を剥奪されたんです。

リウィウスは、この弾劾演説を「歴代監察官の中でも最も長く、最も厳しいもの」と評しています。

生涯無敗の弁護士

大プリニウスの記録によれば、カトーは生涯で44回以上も訴えられましたが、すべての裁判で勝訴しました。

これは当時としては驚異的な記録です。カトーの厳格な政治姿勢は多くの敵を作りましたが、彼の弁舌の才能と公明正大な行動が、常に彼を守ったんですね。

出典・起源

大カトーという人物を理解するために、彼の名前の由来や歴史的背景を見ていきましょう。

名前の由来

カトーの正式な名前はマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスです。

名前の構成:

  • マルクス(Marcus):個人名(プラエノーメン)
  • ポルキウス(Porcius):氏族名(ノーメン)
  • カト(Cato):家族名(コグノーメン)
  • ケンソリウス(Censorius):監察官を務めたことを示す尊称

「カト」という名前の由来

「カト」という家族名の起源については、いくつかの説があります。

主な説:

  1. ラテン語の「catus」(賢い、抜け目ない)から:自然な知恵と経験による優れた判断力を意味する
  2. 母の子宮を切って生まれた(caesus)から:帝王切開で生まれたという説
  3. 戦争で象を殺したから:フェニキア語で象を意味する「caesai」に由来
  4. 豊かな髪(caesaries)を持っていたから
  5. 灰色の瞳(oculis caesiis)を持っていたから

最も有力なのは1番目の説で、プルタルコスもこの解釈を支持しています。

歴史的背景

カトーが活躍した時代は、ローマが地中海世界の覇権国家へと成長していく転換期でした。

ローマの領土拡大

  • 第一次ポエニ戦争(紀元前264-241年)でシチリアを獲得
  • 第二次ポエニ戦争(紀元前218-201年)でカルタゴを破る
  • イベリア半島の征服
  • ギリシア世界への進出

この急速な拡大により、ローマには莫大な富が流入し、社会が大きく変化していきました。

伝統と変革の対立

カトーが生きた時代は、伝統的なローマの価値観新しいギリシア文化が激しく対立した時期でもあります。

伝統派(カトーら)の主張:

  • 質素倹約こそローマの美徳
  • 農業と軍事がローマ市民の基本
  • ギリシア文化は堕落をもたらす
  • 元老院の権威を尊重すべき

革新派(スキピオら)の主張:

  • ギリシア文化は教養として有益
  • 戦功のある将軍には相応の栄誉を
  • 柔軟な外交政策が必要
  • 個人の能力を重視すべき

カトーはまさに、この時代の保守派を代表する人物だったんですね。

著作による影響

カトーは2つの重要な著作を残しました。

『農業論(De agri cultura)』

現存する最古のラテン語散文作品の一つで、農場経営の実践的なマニュアルです。

内容:

  • 農作物の栽培方法
  • 家畜の飼育法
  • 奴隷の管理方法
  • 宗教儀式のやり方
  • 料理のレシピ

この書物は、後世のラテン文学作家たちによって頻繁に引用されました。

『起源論(Origines)』

全7巻からなる歴史書で、イタリア半島の各都市の成り立ちとローマの拡張の歴史を記したものです。

特徴的なのは、指揮官の名前を挙げず、ローマ軍全体とイタリア同盟市の力を強調している点です。カトーは、ローマの強さは個人の英雄ではなく、イタリア全体の団結にあると考えていたんですね。

まとめ

大カトーは、古代ローマの伝統と美徳を体現した政治家でした。

重要なポイント

  • 平民出身でありながら執政官・監察官に上り詰めた「新人」
  • 質素倹約と厳格な正義を貫いた公明正大な政治家
  • 優れた弁論家として150以上の演説を残した
  • ヒスパニア遠征で軍功を挙げ、凱旋式を挙げた
  • 監察官として元老院の浄化と公共事業の改革を断行
  • 「カルタゴ滅ぶべし」の執念でカルタゴ滅亡に貢献
  • ギリシア文化に反対し、ローマの伝統を守ろうとした
  • スキピオ・アフリカヌスとの政治的対立で知られる
  • 『農業論』『起源論』などの著作を残した
  • 生涯で44回以上訴えられたが、すべての裁判で勝訴

大カトーは、時に冷酷で頑固すぎるとも評されましたが、その公明正大さと私利私欲のない姿勢は、古代ローマにおいても尊敬を集めました。

彼の生き方は、「共和政ローマの理想的な市民とはどうあるべきか」という問いへの一つの答えだったのかもしれません。今日でも、「カルタゴは滅ぶべし」という言葉は、執念深く同じ主張を繰り返すことの比喩として使われています。

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