深夜の神社で、白装束を着て頭にろうそくを立てた不気味な人影を見かけたら、あなたはどうしますか?
それは日本に古くから伝わる恐ろしい呪いの儀式「丑の刻参り」を行っている人かもしれません。
江戸時代から現代まで語り継がれてきたこの呪術は、人々の心に深い恐怖を植え付けてきました。
この記事では、日本を代表する呪術「丑の刻参り」について、その儀式の方法や歴史的背景、伝承を詳しくご紹介します。
概要

丑の刻参り(うしのときまいり)は、日本に古くから伝わる呪術の一種です。
丑の刻、つまり午前1時から3時頃の深夜に神社へ参拝し、憎い相手に見立てた藁人形(わらにんぎょう)を御神木に釘で打ちつけて呪うというものなんです。
実は、元々は全く違う意味の儀式でした。平安時代には、丑の刻に神社へ参拝することで祈願成就を願う、ごく普通の信仰行為だったんですね。
特に京都の貴船神社には「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると願いが叶うという伝承があり、多くの人々が訪れていました。
しかし、時代が下るにつれて、この儀式は次第に人を呪うための呪詛(じゅそ)へと変化していったのです。
儀式の方
丑の刻参りの正式な作法は、江戸時代に完成したとされています。
装束と道具
儀式を行う者の姿は、とにかく異様で恐ろしいものでした。
基本的な装束
- 白装束を身にまとう
- 髪を振り乱す
- 顔に白粉(おしろい)を塗る
- 五徳(ごとく)または鉄輪(かなわ)を逆さに頭にかぶる
- その上に3本のろうそくを立てて火を灯す
- 一本歯の下駄または高下駄を履く
- 胸に鏡をつるす
- 口に櫛(くし)を咥える
- 手には五寸釘と金槌を持つ
五徳というのは、囲炉裏などで鍋や薬缶を載せるための三本足の金属製の道具です。これを逆さにして頭にかぶり、三本の足の部分にろうそくを立てるんですね。
儀式の手順
- 深夜2時頃(丑の刻)に神社へ向かう
- 憎い相手に見立てた藁人形を用意する
- 人形には相手の髪の毛や血液、皮膚があるとより効果的とされた
- 御神木に藁人形をあて、頭部または心臓部に五寸釘を打ちこむ
- これを7日間(または21日間)続ける
- 満願になると相手が死ぬと信じられた
特徴

丑の刻参りには、いくつかの重要な特徴があります。
効果と制約
呪われた相手は、藁人形に釘を打ちつけられた部分から病気になり、やがて死に至ると信じられていました。
しかし、この儀式には大きな制約がありました。それは「誰にも見られてはいけない」ということなんです。
もし儀式を行っている姿を誰かに見られてしまうと、呪いの効果が失われるばかりか、呪いが自分に跳ね返ってくるとされました。
そのため、儀式を目撃されてしまった場合、術者は目撃者を始末しなければならないと考えられていたんですね。護り刀を携帯していたのは、そのためです。
黒牛の出現
江戸時代の絵画では、呪術を行う女性のそばに黒牛が描かれることがあります。
7日目の参詣が終わると、黒牛が寝そべっているのに遭遇するはずで、それをまたぐと呪いが成就するという言い伝えがありました。
逆に、黒牛に恐れをなしてしまうと、呪詛の効力が失われるとされています。
「人を呪わば穴二つ」
古くから「人を呪わば穴二つ」という諺があります。
これは、人を呪えば自分も同じ運命を辿るという意味です。
呪詛を行うことで、術者自身も人の心を失い、心身ともに危険な状態になると考えられていました。
伝承
丑の刻参りの原型となった伝説がいくつか残されています。
宇治の橋姫伝説
今日の丑の刻参りの原型として最も有名なのが、宇治の橋姫の伝説です。
この物語は、鎌倉時代後期に書かれた『平家物語』の異本「剣之巻」に記されています。
橋姫伝説のあらすじ
嵯峨天皇の御世、ある女性が嫉妬のあまり、憎い相手を殺すために鬼神になることを貴船神社に願いました。
すると神から「21日間、宇治川に浸かれ」との神託を受けたのです。
女性は神託に従い、次のような姿で儀式を行いました。
- 髪を5つに分けて、5つの角のようにした
- 顔には朱(赤い顔料)を塗った
- 体には丹(赤い顔料)を塗った
- 鉄輪を頭にかぶった
- その三本の足に松明を燃やした
- 口に松明を咥えた
- 夜更けに大和大路へ走り出た
この儀式によって、女性は本当に鬼となり、憎む相手の縁者を次々と殺していったと伝えられています。
後世、渡辺綱という武士に一条戻橋で遭遇し、名刀「髭切」で腕を切り落とされ、その腕は安倍晴明によって封印されたという結末を迎えました。
能『鉄輪』への継承
室町時代になると、この橋姫伝説は能の演目『鉄輪』として演じられるようになりました。
能の中でも、女性は赤い衣をつけ、顔に丹を塗る姿で登場します。
興味深いのは、この演目では陰陽師の安倍晴明が登場し、茅(かや)で作った人形を使って呪いを祓うという場面があることです。
現在の丑の刻参りで藁人形が使われるようになったのは、このような陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためだと考えられています。
起源
人形を使った呪術自体は、実は非常に古い歴史を持っています。
古代の呪術
『日本書紀』用明天皇2年(587年)の記録には、すでに人の像を作って呪う行為が記されています。
「中臣勝海連が家に兵を集めて、太子彦人皇子の像を作って呪った」という記述があり、古墳時代からこうした呪術が存在していたことが分かるんですね。
考古学的証拠
奈良時代の遺物として、実際に呪術に使われたと思われる人形が発掘されています。
平城京跡からの出土品
- 8世紀の木製人形代(もくせいひとがたしろ)
- 長さ約15cm
- 木簡を人形に切り取り、墨で顔が描かれている
- 胸の部分に鉄釘が打ち込まれている
- 両目と心臓部分に約1cmの木釘が打ち込まれたものもある
島根県タテチョウ遺跡からの出土品
- 女性が描かれた木札
- 服装から貴人の女性と推測される
- 3本の木釘が打ち込まれている
- 位置は両乳房と心臓部分
これらの遺物から、人形に釘を打ち込んで人を呪うという呪術体系は、すでに奈良時代には確立していたことが証明されているんです。
駆魅(くみ)との関連
丑の刻参りの先駆けとなったのが、駆魅という呪法でした。
駆魅は、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代にかけて流行した呪術で、やはり呪う相手に見立てた形代を使用しました。
この古代の呪術と、平安時代の丑の刻参拝、そして橋姫伝説が結びつき、江戸時代に現在知られる丑の刻参りの形式が完成したと考えられています。
貴船神社との関係
京都の貴船神社は、丑の刻参りと深い関わりがあります。
貴船明神が降臨したのが「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」とされ、そこから丑の刻に参詣すると願いが叶うという信仰が生まれました。
本来は善良な祈願の場所だったのが、橋姫伝説などを経て、次第に呪詛の場としてのイメージが定着していったんですね。
まとめ
丑の刻参りは、日本の呪術文化を代表する恐ろしい儀式です。
重要なポイント
- 元々は祈願成就のための深夜参拝だったが、後に呪詛の儀式へ変化
- 白装束、五徳に3本のろうそく、藁人形と五寸釘が特徴的
- 宇治の橋姫伝説が原型の一つとして知られる
- 誰にも見られてはいけないという厳格な制約がある
- 古代から続く人形を使った呪術が起源
- 奈良時代の遺物から実際に行われていた証拠が見つかっている
- 呪う者も呪われる「人を呪わば穴二つ」の教訓
現代では怪談や創作の題材として知られる丑の刻参りですが、その背景には日本人の死生観や怨念、そして古代から続く呪術文化の歴史が深く刻まれているのです。


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