「あなたは本当に、自分が正しいと思っていることについて、きちんと理解していますか?」
もし誰かにこう問いかけられたら、あなたはどう答えるでしょうか。
古代ギリシャのアテネで、まさにこのような問いを投げかけ続けた人物がいました。それがソクラテスです。
彼は一切の本を書き残さなかったにもかかわらず、西洋哲学の歴史に最も大きな影響を与えた人物の一人となりました。この記事では、問答によって真理を追究し、「無知の知」という言葉を残した偉大な哲学者ソクラテスについて詳しくご紹介します。
概要

ソクラテスは、紀元前470年頃から紀元前399年まで生きた、古代ギリシャを代表する哲学者です。
アテネという都市国家で生まれ育ち、生涯のほとんどをその街で過ごしました。特筆すべきは、彼が自分の思想を一切文字に残さなかったということ。そのため、ソクラテスの考えや生き方は、弟子たちが書き残した記録を通じてしか知ることができません。
最も有名な弟子がプラトンとクセノフォンで、彼らの著作から、ソクラテスがどんな人物だったかを知ることができるんですね。
ソクラテスは西洋哲学の基礎を築いた人物として、また倫理学(道徳哲学)の最初期の哲学者として認識されています。釈迦、キリスト、孔子と並んで「四聖人」に数えられることもあるほど、世界的に重要な思想家なんです。
偉業・功績
ソクラテスの偉業は、哲学の方向性そのものを変えたことにあります。
哲学の焦点を変えた
彼以前の哲学者たちは、主に自然界の仕組みを研究していました。例えば「世界は何でできているのか」「宇宙はどう成り立っているのか」といった問いですね。
しかしソクラテスは、そういった自然の探求よりも、人間そのもの、特に「どう生きるべきか」「何が善なのか」といった倫理的な問題に焦点を当てました。この転換により、哲学は人間の生き方を探求する学問へと発展していったのです。
問答法の確立
ソクラテスが開発した問答法(ソクラテス式問答法)は、彼の最も重要な功績の一つです。
これは相手と対話しながら、質問を重ねていくことで、相手の考えの矛盾や曖昧さを明らかにしていく方法なんですね。例えば:
問答法の流れ
- まず相手に「勇気とは何か」といった抽象的な概念の定義を求める
- 相手が答えを示す
- さらに質問を重ねていく
- 最初の定義に矛盾が見つかる
- 新しい定義を考え直す
この繰り返しによって、真理に近づいていこうとしたわけです。
「無知の知」の発見
ソクラテスは「自分は何も知らない」ということを自覚している点で、他の人々より優れていると考えました。
この「無知の知」という概念は、後世に大きな影響を与えました。多くの人は知らないことを知っていると思い込んでいますが、ソクラテスは自分の無知を認識していたんですね。
西洋哲学の父
ソクラテスの影響は計り知れないほど大きく、彼の死後、ほとんどすべての哲学の流れがソクラテスに起源を求めることができます。
- プラトンのアカデメイア
- アリストテレスのリュケイオン
- キュニコス派(犬儒学派)
- ストア派
これらすべての哲学の学派が、ソクラテスの影響を強く受けているんです。
系譜
ソクラテスの家系と人間関係を見てみましょう。
家族構成
父: ソプロニスコス(石工または彫刻家)
母: パイナレテ(助産婦)
ソクラテスは、いわゆる一般的な中流家庭に生まれました。特別な貴族の家系ではなかったんですね。
結婚と子供
妻については興味深い記録が残っています。ソクラテスには二人の妻がいたとされます。
妻たち
- クサンティッペ – 息子ランプロクレスの母
- ミュルト(アリステイデスの娘)- 息子ソプロニスコスとメネクセノスの母
ただし、当時のアテネでは人口不足を解消するため、一夫多妻が認められる時期があったそうです。
クサンティッペは「悪妻」として有名で、よく怒鳴っていたと伝えられています。これに対してソクラテスは「悪い妻をもてば、私のように哲学者になれる」と冗談めかして語ったとも言われているんです。
弟子たち
ソクラテスには多くの優秀な弟子がいました。ただし本人は「弟子を取った」とは考えておらず、「誰とでも問答しただけ」と主張していました。
主な弟子
- プラトン – 最も有名な弟子。アカデメイアを創設し、師の思想を対話篇として記録した
- クセノフォン – 軍人・著述家。『ソクラテスの思い出』などを著した
- アンティステネス – キュニコス派の開祖
- アリスティッポス – キュレネ学派の開祖
- メガラのエウクレイデス – メガラ学派の開祖
- アルキビアデス – 軍人・政治家(後にアテネを裏切った)
興味深いのは、同じ師に学んだ弟子たちが、それぞれまったく異なる哲学の流れを作っていったことです。
姿・見た目

ソクラテスの外見は、決して美しいものではありませんでした。
身体的特徴
ソクラテスの容姿については、複数の記録が一致して「醜かった」と伝えています。
外見の特徴
- 背が低かった
- 鼻が低く、平らで上を向いていた
- 目が飛び出していた
- 大きな腹をしていた
- 太くずんぐりした体型
弟子のプラトンでさえ、「我が師ソクラテスは世界で一番醜い。しかし一番賢い」と言ったほどです。友人たちも彼の外見をよく冗談のネタにしていました。
生活態度
見た目だけでなく、日常の身なりにも無頓着でした。
- 個人的な衛生にほとんど気を使わなかった
- めったに風呂に入らなかった
- 裸足で歩いていた
- ボロボロの服を一着しか持っていなかった
物質的な快楽や、自分の外見、個人的な快適さには全く興味がなかったんですね。
生活習慣
ソクラテスは節制の人でした。
- 食事、飲酒、性欲を抑制していた(完全な禁欲ではない)
- 若者に魅力を感じることはあったが、教育に興味があり、肉体的な関係は求めなかった
- 毎日街中で人々と議論することに時間を費やした
このように、外見は醜いと言われ、生活は質素でしたが、その頭脳と会話術によって多くの若者を惹きつけたのです。
特徴
ソクラテスには、他の哲学者にはない独特の特徴がありました。
問答による教育
ソクラテスは一方的に教えるのではなく、対話を通じて相手に考えさせる方法を取りました。
これは「助産術」とも呼ばれます。母親が助産婦だったソクラテスは、自分の役割を「知識を与えるのではなく、相手が自分の中にある真理を生み出すのを助けること」だと考えたんですね。
無知の自覚
「私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ」
これがソクラテスの基本的な立場でした。多くの人は自分が知っていると思い込んでいますが、ソクラテスは常に自分の無知を認識していました。この謙虚な姿勢が、逆に彼を賢者たらしめたのです。
ダイモニオン(内なる声)
ソクラテスには不思議な能力がありました。それは「ダイモニオン」と呼ばれる内なる声を聞くことです。
ダイモニオンの特徴
- 幼年時代から現れるようになった
- 一種の声(神的な合図)として感じられた
- 常に「何かをしてはいけない」と諫止する形で現れた
- 何かを勧める形では決して現れなかった
この「声」が、ソクラテスの重要な決断の指針となっていました。ただし、このことが後に「国家の神々を信じず、新しい神霊を信じている」という訴えの根拠の一つとなってしまいます。
著作を残さなかった理由
ソクラテスが一切の著作を残さなかったのには、明確な理由がありました。
書き言葉への批判
- 書かれた言葉は「死んだ会話」である
- 反論を許さず、柔軟性に欠ける
- 書き言葉は記憶を破壊する
- 表面的な理解しかもたらさない
ソクラテスにとって、生きた対話こそが真の教育だったのです。相手の理解に合わせて問いを調整し、誤解を避けるために表現を選び、適切なタイミングで知識を伝える――これができるのは対話だけだと考えたんですね。
政治への態度
ソクラテスは政治家ではありませんでしたが、政治に対して独自の立場を持っていました。
- 選挙に立候補したことはなかった
- 法律を提案したこともなかった
- しかし、市民としての義務は果たした(兵役など)
- 民主派と貴族派の両方を批判した
彼の考えでは、政治とは選挙手続きではなく、哲学を通じて市民の道徳的景観を形作ることだったのです。
伝承

ソクラテスの人生で最も有名なエピソードは、彼の裁判と死です。
デルポイの神託
すべての始まりは、友人のカイレフォンがデルポイの神殿で受けた神託でした。
カイレフォンが巫女に「ソクラテス以上の賢者はいるか?」と尋ねたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」という答えが返ってきたのです。
これを聞いたソクラテスは驚きました。なぜなら、自分は何も知らない無知な者だと自覚していたからです。
神託の意味を探る旅
神託の意味を理解するため、ソクラテスは賢者と評判の人々を訪ね歩きました。
訪ねた人々
- 政治家たち
- 詩人たち
- 職人たち
しかし、話してみると、彼らは自分が知っていると思い込んでいるだけで、実際には何も理解していないことが分かったのです。
ここでソクラテスは悟りました。「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が、わずかに賢い」のだと。
神託の真意は、「人間の知恵の価値は僅かもしくは無に等しい。最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」ということを示すことだったんですね。
裁判への道
ソクラテスの問答は多くの若者を魅了しましたが、同時に強力な敵も作りました。
敵を作った理由
- 賢者と言われる人々の無知を暴いた
- その人々やその関係者から恨まれた
- 富裕な若者たちがソクラテスの問答を真似するようになった
- その若者たちに論破された人々も憤慨した
さらに悪いことに、ソクラテスの弟子とされる人物の中に、アテネを裏切った者たちがいました。
- アルキビアデス – 敵国スパルタに亡命し、アテネの敗北を招いた
- クリティアス – 三十人政権の指導者となった
これらの要因が重なり、紀元前399年、ソクラテスは裁判にかけられることになります。
裁判
訴状の内容
- 国家が信じる神々を信じず、新しい神霊を信じている
- 若者を堕落させた
原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらが後ろ盾となっていました。
裁判では約500人の市民が陪審員を務めました。ソクラテスは弁明を行いましたが、自説を曲げることも、謝罪することもしませんでした。
裁判の経過
- 第1回投票 – 有罪(比較的小差)
- 刑罰の提案 – ソクラテスは「国家から無料の食事を与えられるべき」と主張
- 第2回投票 – 死刑(大差で可決)
ソクラテスの態度が陪審員の反感を買い、死刑判決となってしまったのです。
逃亡の拒否
判決後、友人たちはソクラテスに逃亡を勧めました。牢番も協力的で、逃げることは簡単でした。
しかしソクラテスは拒否しました。彼の考えでは:
- アテネの法と自分の間には契約が成立している
- 70年間この国で暮らし、恩恵を受けてきた
- 今さら一方的に契約を破ることは不正である
- 「単に生きるのではなく、善く生きる」ことが重要
最期
紀元前399年、ソクラテスは親しい人々と最後の問答を交わした後、ドクニンジンの毒杯を飲み干しました。
最後の言葉は「クリトン、アスクレピオス神に雄鶏一羽の借りがある。忘れずに返してくれ」だったと伝えられています。
死を前にしても、冷静に、従容として最期を迎えたのです。
裁判後の反響
興味深いことに、ソクラテスの死後、アテネの人々は後悔したと言われています。
あまりに偉大な人を不当な裁判で殺してしまったことに気づき、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという記録もあります。ソクラテス自身が予言した通り、弟子たちからの批判も厳しいものとなりました。
出典・起源
ソクラテスについて私たちが知っていることは、すべて他の人々の記録から来ています。
主要な出典
ソクラテス自身は何も書き残さなかったため、以下の人々の著作を通じて彼を知ることができます。
プラトンの対話篇
最も包括的な資料です。プラトンはソクラテスの弟子で、師の死後に多くの対話篇を執筆しました。
主な作品
- 『ソクラテスの弁明』 – 裁判での弁明
- 『クリトン』 – 獄中での友人との対話
- 『パイドン』 – 最期の日の対話
- 『饗宴』 – 愛についての議論
- 『国家』 – 正義と理想国家について
ただし、プラトンの対話篇では、特に後期になるほど、プラトン自身の思想がソクラテスの口を借りて語られている可能性が高いんですね。どこまでが本当のソクラテスの思想なのかは、議論が分かれています。
クセノフォンの著作
クセノフォンも弟子の一人で、4つのソクラテス関連著作を残しました。
- 『ソクラテスの思い出』(メモラビリア)
- 『ソクラテスの弁明』
- 『饗宴』
- 『家政論』(オイコノミコス)
クセノフォンが描くソクラテスは、プラトンのものよりも実用的で、宗教的な面が強調されています。また、幾何学や天文学などの高度な学問よりも、実生活に役立つ知識を重視する人物として描かれているんです。
その他の資料
- アリストファネスの『雲』 – ソクラテス存命中に書かれた喜劇。ただし戯画化されており、実際の姿とは異なる
- アリストテレスの著作 – プラトンの弟子。ソクラテスについて一部言及している
- ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』 – 約600年後の伝聞情報だが、家族構成などの詳細情報がある
ソクラテス問題
これらの資料が矛盾することもあり、「本当のソクラテス像を再構築することは不可能」という問題があります。これを「ソクラテス問題」と呼びます。
例えば:
- プラトンは哲学者としてのソクラテスを強調
- クセノフォンは実践的な道徳家としてのソクラテスを描く
- どちらが真実に近いのか判断が難しい
現代の学者たちは、複数の資料を比較検討しながら、できるだけ正確なソクラテス像を描き出そうと努力しています。
歴史的背景
ソクラテスが生きた時代は、アテネの黄金期から衰退期にかけての激動の時代でした。
時代背景
- ペルシャ戦争後、アテネは最盛期を迎えた
- 民主制が確立された
- ペロポネソス戦争でスパルタに敗北
- 三十人政権による恐怖政治
- 社会的・政治的混乱
この混乱の中で、古い伝統と新しい思想が入り乱れ、ソクラテスはそのどちらにも与せず、独自の道を歩んだのです。
まとめ
ソクラテスは、一切の著作を残さなかったにもかかわらず、西洋哲学史上最も影響力のある人物の一人となりました。
重要なポイント
- 古代ギリシャ・アテネの哲学者(紀元前470年頃~前399年)
- 西洋哲学の基礎を築き、倫理学の父と呼ばれる
- 「無知の知」 – 自分の無知を自覚することの重要性を説いた
- 問答法(助産術) – 対話を通じて相手に真理を発見させる方法を開発
- 哲学の焦点を自然から人間へと転換させた
- 優れた頭脳で若者を魅了
- 書き言葉ではなく、生きた対話を重視した
- 「若者を堕落させ、神々を信じない」という罪で裁判にかけられた
- 逃亡の機会を拒否し、毒杯を飲んで死去
- プラトンやクセノフォンなど、多くの優秀な弟子を育てた
- その影響は後世の哲学に計り知れないほど大きい
ソクラテスの生き方は、「真理を追究し、善く生きること」の大切さを私たちに教えてくれます。権力や富、外見ではなく、魂の向上こそが最も重要だという彼の信念は、2400年以上経った今でも色あせることはありません。
もし今、ソクラテスが生きていたら、きっと私たちにも問いかけるでしょう。「あなたは本当に、自分が信じていることについて、理解していますか?」と。


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