「人はどこから来て、どこへ行くのか」──この問いに、仏教は明確な答えを示しています。
仏教の天台宗では、私たちの心の状態や死後に転生する世界を、十種類に分類して説明しているんです。地獄から仏の世界まで、苦しみと悟りの段階を表すこの考え方は、千年以上も前から日本人の死生観に影響を与えてきました。
この記事では、仏教が説く「十界」について、その成り立ちから各世界の特徴まで詳しくご紹介します。
概要:十界ってなに?

十界(じっかい)とは、天台宗の教義において、すべての生命が経験する心の境地や、死後に転生する世界を十種類に分類したものです。十法界(じっぽうかい)とも呼ばれます。
この十界は、大きく二つのグループに分けられます。
十界の構成
六道(ろくどう) – 迷いの世界
- 地獄道(じごくどう)
- 餓鬼道(がきどう)
- 畜生道(ちくしょうどう)
- 修羅道(しゅらどう)
- 人間道(にんげんどう)
- 天道(てんどう)
四聖(ししょう) – 悟りの世界
- 声聞界(しょうもんかい)
- 縁覚界(えんがくかい)
- 菩薩界(ぼさつかい)
- 仏界(ぶっかい)
六道は私たちが生死を繰り返す「輪廻(りんね)の世界」であり、四聖は修行によって到達できる「解脱(げだつ)の世界」なんですね。
六道:終わりなき苦しみの輪廻
六道とは、生きとし生けるものが、その業(ごう・カルマ)──つまり生前の行いによって転生する六つの世界のことです。
仏教では、どれほど幸福そうに見える天界であっても、六道にいる限りは真の安らぎは得られないと説いています。なぜなら、六道はすべて「苦しみの世界」だからなんです。
三悪道(さんあくどう):最も苦しい三つの世界
六道の中でも特に苦しみが深い世界を三悪道と呼びます。
地獄道:責め苦の極み
地獄道は、十界の中で最も苦しい世界です。殺生や嘘、盗みなど重い罪を犯した者が落ちるとされ、そこでは想像を絶する責め苦が与えられます。
平安時代の僧・源信が著した『往生要集』には、地獄の様子が生々しく描かれています。灼熱の炎で焼かれる「焦熱地獄」、極寒で凍りつく「寒氷地獄」など、八つの大地獄があり、それぞれがさらに細かく分かれているというんです。
『今昔物語集』には、法華経を読誦した功徳により、地獄から救われた母の話が残されています。息子の蓮円が母の供養のため諸国を巡って経を読んだところ、夢の中で地獄の門が開き、炎の中で苦しむ母の姿を見たというのです。しかし母は「お前の読経の功徳で、天に生まれ変わることができる」と告げたのでした。
餓鬼道:満たされることのない飢え
餓鬼道は、貪欲や物惜しみの心が強かった者が転生する世界です。
『往生要集』によれば、餓鬼には非常に多くの種類がいます。「食吐(じきと)」という餓鬼は、人が嘔吐したものしか食べられません。「食気(じっけ)」という餓鬼は、供養の線香の香りだけで生きています。
特に恐ろしいのは、口が針の穴ほどに小さく、お腹だけが山のように膨れている餓鬼です。たとえ食べ物を見つけても、口に入れた瞬間に炎に変わってしまうため、永遠に飢えと渇きに苦しむのだそうです。
『救抜焔口陀羅尼経』には、釈迦の弟子・阿難の前に焔口という餓鬼が現れ、「お前は三日後に醜い餓鬼に生まれ変わる」と告げる話があります。恐れた阿難が釈迦に相談すると、特別な呪文を唱えて餓鬼に食物を施せば救われると教えられました。これが日本のお盆に行われる施餓鬼会(せがきえ)の起源なんです。
畜生道:本能のままに生きる世界
畜生道とは、動物として生まれる世界のことです。その種類は実に二十四億種もあるとされ、鳥類、獣類、虫類、魚類などすべての動物が含まれます。
『日本霊異記』には、生前の行いによって動物に転生した人々の話が数多く記されています。
ある僧・長勝は、寺の薪を一本盗んで他人に与え、返さずにいました。その報いとして、死後はその寺の牛に生まれ変わり、薪を運ぶ役牛(えきぎゅう)として苦役に就いたというんです。
また、田中忠文という強欲な高利貸しの妻・広虫女は、病死して七日目に生き返りました。しかし蘇生した彼女の身体は、腰から上が牛の姿になっており、頭には角が生え、腕は前脚となり、手は蹄のような形をして悪臭を放っていたそうです。生前の強欲さが、このような恐ろしい報いを招いたのでした。
畜生道では、強い者が弱い者を食らう弱肉強食の世界が続きます。知恵も理性もなく、ただ本能のままに生き、安らぎの時など一切ないとされています。
三善道(さんぜんどう):相対的にましな三つの世界
六道の中でも、三悪道に比べれば「まし」とされる世界を三善道と呼びます。しかし、ここもまた苦しみに満ちた世界であることに変わりはありません。
修羅道:果てしない戦いの世界
修羅道は、阿修羅(あしゅら)という戦いの神々が住む世界です。
この「修羅」という言葉は、古代インド神話に登場する神「アスラ」に由来します。アスラはもともと、中央アジアから侵入したアーリア人の神々に対抗した、在地の神々を表していました。神話の中では、アスラは天界の帝王・帝釈天(インドラ)と激しい戦争を繰り返す「反逆の神」として描かれています。
『往生要集』には、「雷が鳴れば、阿修羅たちはそれを天の軍鼓の音と思い、恐れおののく」「常に諸天の者たちに侵害され、身体を傷つけられ命を奪われる」と記されています。これは古代インドで、侵略者の軍鼓の響きに震えた人々の恐怖を表しているのかもしれません。
生前に争いや殺し合いを好んだ者、怒りや憎しみ、嫉妬心にとらわれた者が、この世界に転生するとされています。奈良・興福寺の国宝阿修羅像は、戦いの神でありながら、悲しみを含んだ穏やかな表情をしています。これは阿修羅が戦いをやめて仏教に帰依し、守護神になることを決意した瞬間の姿だといわれているんです。
人間道:苦楽が交差する世界
人間道とは、私たちが今生きているこの世界のことです。
平安時代の源信は『往生要集』の中で、人間界を「厭離穢土(おんりえど)」──つまり「穢れた苦しみの世界として厭い離れるべき場所」として描いています。人間の身体は不浄なものであり、生老病死の苦しみから逃れられないというのです。
源信は人体について、「およそ百五十個の骨があり、腸の中には虫や蛆が湧いている。外面をどれほど美しく飾っても、内には不浄なもの、毒気が詰まっている」と記しています。人は死んでから数日で遺体は膨れ上がり、皮は破れ、膿や血が流れ出る。鳥や獣、虫たちに血肉は食い尽くされ、やがて白骨になって泥土に混じってしまう──これが人間の運命なのだと説いたんですね。
しかし仏教では、人間道は特別な意味を持っています。なぜなら、仏法に出会い、修行することができるのは人間だけだからです。生前に五戒(ごかい)──不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒──を守った者がこの世界に転生できるとされています。
天道:至福の天界、されど
天道は、神々が住む天界のことで、六道の中では最も優れた世界です。
生前に悪行を慎み、善行を重ねた者が転生する世界とされ、喜びに満ち、長寿で、あらゆる欲望が満たされる楽園なんです。『往生要集』によれば、天界は欲界・色界・無色界の三つに分かれており、それぞれにさらに多くの天が存在します。
中でも有名なのが忉利天(とうりてん)です。これは須弥山(しゅみせん)という世界の中心にそびえる巨大な山の頂上にある、帝釈天の世界のこと。そこには善見城(ぜんげんじょう)という煌びやかな王宮があり、宮殿の中央には帝釈天の玉座があるといいます。
しかし、どれほど至福に満ちた天界であっても、そこに住む天人たちにも寿命があるんです。死期が近づくと天人五衰(てんにんごすい)という五つの衰えの兆候が現れます。
天人五衰の兆候
- 頭の飾りが汚れてくる
- 天衣(てんね)が汚れてくる
- 脇の下から汗が出てくる
- 目がしばしばと瞬くようになる
- 天の王宮にいても楽しめなくなる
この五衰が現れたとき、天人は心に大きな苦悩を感じます。源信は「その辛さは、地獄の苦しみに勝るとも劣らない」と記しています。天界の至福を知っているからこそ、それを失う恐怖は計り知れないものなのだそうです。
また、天道には天魔(てんま)と呼ばれる強力な魔王が住んでいます。第六天魔王は、仏教を滅ぼそうとする悪魔で、大蛇の姿となって仏道修行者に襲いかかるといわれています。天界でさえも、完全に安らかな場所ではないんですね。
四聖:悟りへの階梯

六道がすべて「迷いの世界」であるのに対し、四聖(ししょう)は修行によって到達できる「悟りの世界」です。悟界(ごかい)とも呼ばれます。
四聖は、六道輪廻を脱するための修行の段階を表しています。
声聞界:仏の教えを学ぶ段階
声聞(しょうもん)とは、釈迦の声(言葉)を聞いて出家し、修行する者のことです。
ここでいう「学ぶ」とは、仏法に限りません。哲学、文学、物理学、さらには大衆娯楽や子供の遊びに至るまで、あらゆることから学ぼうとする姿勢そのものを指しています。学ぶことで無知を克服し、真理に近づいていく──それが声聞界なんですね。
声聞は四諦(したい)──苦諦・集諦・滅諦・道諦という四つの真理を学び、涅槃(ねはん)を目指します。
縁覚界:独力で悟る段階
縁覚(えんがく)とは、仏の教えの縁に触れることで、自己の内面において独力で悟りに至った者のことです。辟支仏(びゃくしぶつ)とも呼ばれます。
縁覚は十二因縁(じゅうにいんねん)──生老病死の苦しみが生まれる十二の連鎖──を観察し、因果の法則を理解することで悟りを得ます。ただし、この悟りは仏界における完全な悟りとは根本的に異なり、自己の解脱に重点を置いたものなんです。
菩薩界:他者を救う段階
菩薩(ぼさつ)とは、仏の使いとして、人々を救うために行動する者のことです。
重要なのは、菩薩界とは「行動そのもの」を指すということ。自分の悟りだけでなく、他者を救済することに尽力する──その慈悲の実践が菩薩界なんですね。出家・在家を問わず、広く人々を救う道を歩む修行者が菩薩とされています。
地蔵菩薩、観音菩薩、文殊菩薩など、私たちに馴染み深い菩薩たちは、自らが仏になることよりも、苦しむ衆生を救うことを優先している存在なんです。
仏界:究極の悟りの世界
仏界(ぶっかい)とは、完全な悟りを開いた仏陀の境地です。
仏界に至った者は、六道輪廻から完全に解脱し、もはや生死の苦しみに縛られることはありません。それは極楽浄土のような、永遠の安らぎの世界なんです。
仏教では「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」──つまり、生きとし生けるものはすべて仏になる可能性を持っている──と説かれています。生まれたての子どもは純真無垢な心を持っていますが、人生を送る間に罪を犯したり、煩悩に縛られたりしてしまいます。仏界とは、そうした穢れを完全に浄化し、本来の清らかな心を取り戻した状態なのです。
十界互具:すべての世界は繋がっている
天台宗の教義には、十界互具(じっかいごぐ)という重要な考え方があります。
これは「十界がそれぞれ、他の十界を含んでいる」という意味なんです。つまり、地獄界の中にも仏界があり、仏界の中にも地獄界がある──十界すべてが互いに含み合っているというんですね。
百界と一念三千
十界互具によって、10 × 10 = 100の世界(百界)が成立します。さらにこれを十如是(じゅうにょぜ)という十の観点と、三世間(さんせけん)という三つの領域で見ることで、100 × 10 × 3 = 3000の世界が導かれます。
これを一念三千(いちねんさんぜん)といいます。私たちの一瞬の心の中には、三千の世界すべてが含まれているという、壮大な世界観なんです。
心の在り方で世界は変わる
十界互具が意味するのは、私たちの心の在り方次第で、今いる世界が変わるということです。
瞋恚(しんに・怒り)の念を起こせば地獄界と相応し、人倫道徳を守れば人界と相応する。同様に、慈悲の心を起こせば菩薩界と、悟りの心を起こせば仏界と相応するんですね。
地獄の衆生であっても、仏性が顕現すれば解脱して成仏できる。逆に、仏身であっても、九界(仏界以外の九つの世界)の心で化身し、衆生を救済する事業を行うことができる──これが十界互具の教えなんです。
まとめ
十界は、仏教が説く生命の在り方と、心の境地を表す壮大な世界観です。
十界の重要ポイント
- 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)は迷いと苦しみの輪廻の世界
- 四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)は悟りへの段階を表す
- 六道はすべて苦しみの世界で、真の安らぎはない
- 人間道だけが仏法に出会い修行できる特別な世界
- 十界互具の教えでは、すべての世界が互いに含み合っている
- 私たちの心の在り方が、今いる世界を決定する
古代から伝わる十界の教えは、単なる死後の世界の説明ではありません。それは「今この瞬間、どのような心で生きるか」を問いかける、実践的な人生の指針でもあるんです。
怒りに支配されれば地獄界に、欲望に溺れれば餓鬼界に、慈悲の心を持てば菩薩界に──私たちは日々、十界を行き来しながら生きているのかもしれませんね。
参考文献
- 『往生要集』源信
- 『日本霊異記』景戒
- 『今昔物語集』作者未詳
- 『平家物語』作者未詳
- 『正法念処経』
- 『仏祖統紀』志磐
- 『大智度論』龍樹
- 『妙法蓮華経(法華経)』
- 『救抜焔口陀羅尼経』


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