四国といえば、狸の伝説が数多く残る土地として知られていますよね。
その四国で、なんと808匹もの狸たちを従えた大親分がいたという話を聞いたことはありますか?
その名も「隠神刑部狸(いぬがみぎょうぶだぬき)」。愛媛県松山市に伝わるこの化け狸は、天智天皇の時代から続く歴史を持ち、松山城を守り続けた偉大な存在だったんです。
しかし、ある日突然起きたお家騒動に巻き込まれ、大親分の運命は大きく変わってしまいました。
この記事では、日本三大狸話の一つに数えられる隠神刑部狸について、その正体と伝承を詳しくご紹介します。
概要

隠神刑部狸は、愛媛県松山市に伝わる四国最強クラスの化け狸なんです。
『証城寺の狸囃子』や『分福茶釜』と並んで日本三大狸話の一つに数えられる『松山騒動八百八狸物語』に登場する、伝説の主人公なんですね。
どんな存在だったの?
隠神刑部狸には、いくつか特筆すべき特徴があります。
隠神刑部狸の特徴
- 808匹の眷属を率いる総帥:「八百八狸(はっぴゃくやたぬき)」とも呼ばれる
- 松山城の守護神:古くから城と土地を守り続けてきた
- 四国最高の神通力:飛鳥時代(天智天皇の頃)から存在する長寿の妖怪
- 正式な称号を持つ:「刑部」という名は松山城主の先祖から授かった称号
- 神格化された存在:単なる妖怪ではなく、神に分類されるほどの格
面白いのは、808匹の子分たちは全員が隠神刑部とその奥方の子孫だということ。つまり、狸が狸を生んで、何世代にもわたって増えていった結果なんですね。
住んでいた場所
隠神刑部は久万山の古い岩屋に住んでいたとされています。
そこから松山城を守護し、城の家臣たちからも、土地の人々からも、身分に関係なく広く信仰される存在でした。人間と狸が共存していた、平和な時代があったんですね。
伝承
隠神刑部狸の物語は、享保の大飢饉をきっかけに起こった松山藩のお家騒動が舞台になっています。
松山騒動への巻き込まれ
時は江戸時代、松平(久松)隠岐守の治世。
享保の大飢饉という大変な時期に、松山藩でお家騒動が勃発しました。
上代家老の奥平久兵衛が率いる謀反側は、なんと隠神刑部狸の力を利用しようと企てたんです。城を守る立場だった隠神刑部が、どうして謀反側の手助けをすることになったのか。これには諸説あります。
騒動に関わった理由(バリエーション)
- 不可侵条約説:若侍・後藤小源太と契約を結んでしまい、仕方なく協力した
- 城主への不満説:伝統を軽んじる城主に不満を持ち、小源太と同盟を結んだ
- 騙された説:謀反側に騙されて味方につき、後に悪者に仕立て上げられた
どの説が正しいにせよ、隠神刑部と808匹の眷属たちは怪異を起こし、謀反側に力を貸すことになってしまったんです。
稲生武太夫の登場
この騒動を収めるために、ある豪傑が呼ばれました。
その名は稲生武太夫(いのうぶたゆう)。
彼は『稲生物怪録』という怪談で有名な人物で、なんと妖怪の頭領・山本五郎左衛門に認められた経験を持つ、妖怪退治のプロだったんです。
武太夫が持っていた武器も特別でした:
- 宇佐八幡大菩薩から授かった神杖(別バージョンでは山本五郎左衛門から授かった木槌)
- 山内与兵衛の霊を宿す霊刀・菊一文字
こうしたチート級の武器を携えた武太夫は、松山へ乗り込み、隠神刑部狸と対決することになりました。
久万山への封印
戦いの結果、隠神刑部狸は敗北してしまいます。
武太夫は神杖(または木槌)を使って狸たちをさんざんに打ちのめし、808匹の眷属もろとも、隠神刑部を久万山の洞窟に封じこめてしまったんです。
こうして松山騒動は終息し、謀反側の奥平久兵衛も倒されました。
封印後の影響
ところが、封印された後も隠神刑部は人々から敬愛され続けました。
実は、八百八狸が封印されてしまったことで、四国は化け物の伏魔殿になってしまったという言い伝えもあるんです。つまり、隠神刑部たちが四国の妖怪たちを抑えていた、バランサーのような役割を果たしていたんですね。
現在も残る痕跡
封じこめられた洞窟は、今でも愛媛県松山市久谷中組に「山口霊神」という小さな祠として残っています。
地元では今も、かつての大親分を祀る場所として大切にされているんです。
まとめ
隠神刑部狸は、四国最強の化け狸として、また松山城の守護神として、長く人々に愛された存在でした。
重要なポイント
- 808匹の狸を従える四国最強の化け狸
- 天智天皇の時代から存在する長寿の妖怪
- 松山城の守護神として広く信仰されていた
- 享保の大飢饉時の松山藩お家騒動に巻き込まれた
- 稲生武太夫によって久万山の洞窟に封印された
- 日本三大狸話の一つ『松山騒動八百八狸物語』の主人公
- 封印後も敬愛され、現在も「山口霊神」として祀られている
守護神だった隠神刑部が、人間たちの争いに巻き込まれて封印されてしまうという物語は、どこか切なさを感じさせますよね。それでも今なお、松山の人々が彼を大切に祀り続けているのは、長年守ってくれた恩を忘れていない証なのかもしれません。


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