みなさんは「数学の公式を神様が教えてくれる」なんて話、信じられますか?
これは、今から100年以上前にインドに実在した数学者の話です。
1887年12月22日、南インドの小さな町で生まれたシュリニヴァーサ・ラマヌジャン。 彼の名前は「ラーマ神の弟」という意味があります。
驚くことに、彼はほとんど学校で数学を習わなかったのに、現代の物理学やコンピューターの基礎となる大発見をしたんです。
しかも彼は本当に「女神ナーマギリが夢の中で数式を教えてくれる」と言っていました。
ファンタジーみたいな話ですよね? でも、これは本当にあったことなんです。
貧しい家で育った数学の天才
病気に負けなかった少年時代
ラマヌジャンのお父さんは、月給わずか20ルピー(今の日本円で約3000円)の布屋の店員でした。
お母さんは、お寺で賛美歌を歌う信心深い人でした。
2歳のとき、天然痘という恐ろしい病気が流行しました。
4000人もの人が亡くなる中、ラマヌジャンは奇跡的に助かります。
顔に痕は残ったけど、命は助かったんです。
4歳まであまり話さなかったので、家族はとても心配しました。
でも実は、彼の頭の中ではもう数字が踊っていたんです!
10歳になると:
- 円周率を何桁も暗記
- 難しい計算を暗算でスラスラ
- サンスクリット語の詩も丸暗記
学校の先生たちは、自分の計算が合っているか確かめるために、この少年に聞くようになりました。
運命の本との出会い
16歳のとき、人生を変える1冊の本と出会います。
その本には5000個以上の数学の公式が、答えだけ書いてあって、解き方は書いてないという不思議な本でした。
普通の学生なら「解き方がなきゃ勉強できないよ!」と投げ出すでしょう。
でもラマヌジャンは違いました。
紙は高くて買えないので、石の板に計算を書いては消し、書いては消しを繰り返しました。
夜通し数学に夢中になって、30時間働いて20時間眠るという変な生活リズム。
お母さんは「ご飯食べなさい!」と無理やり食べさせないといけないほどでした。
彼はこの1冊だけで、ヨーロッパの数学者が何百年もかけて発見したことを、一人で発見していったんです。
えっ、大学を卒業できなかった天才?
数学以外は全部ダメだった
信じられないかもしれませんが、ラマヌジャンは大学を卒業できませんでした。
高校では数学がすごすぎて、校長先生が「満点以上の点数をあげたい!」と言うほど。
でも大学に入ると…
- 英語のテスト:白紙で提出
- 理科のテスト:白紙で提出
- 国語のテスト:白紙で提出
数学以外、全く興味が持てなかったんです。
奨学金もなくなり、家出までしてしまいます。 家族は新聞に「行方不明」の広告まで出しました。
別の大学に入り直しても同じことの繰り返し。 学位なし、仕事なし、お金なし。
でも、数学への愛だけは失いませんでした。
21歳で9歳の女の子と結婚!?
今では考えられませんが、当時のインドではこれが普通でした。
21歳のラマヌジャンは、9歳のジャナキという女の子と結婚します。 ジャナキは12歳になってから、やっと夫の家に来ました。
でもラマヌジャンは数学に夢中で、奥さんにはあまり関心を示しませんでした。 ジャナキは後に「定期的にご飯やレモンジュースを出せることが幸せでした」と語っています。
人生を変えた1通の手紙
イギリスの偉い教授への挑戦
1913年1月16日、ラマヌジャンは勇気を出して、イギリスのケンブリッジ大学のハーディ教授に手紙を書きました。
「私はマドラスの港で年収20ポンドの事務員です…」
こんな控えめな書き出しの後に、120個以上のすごい数学の公式が書いてありました。
その中には「1+2+3+4+…(無限に続く)= -1/12」という、ありえなさそうな式も! (実はこれ、現代の物理学で本当に使われているんです)
教授たちの衝撃
最初、ハーディ教授は「いたずらか?」と疑いました。
でも仲間と検討した結果… 「これは本物だ!だって、もし嘘ならこんなすごいものを想像できる人はいない」
バートランド・ラッセルという有名な学者は、ハーディたちが 「第二のニュートンを発見した!年収20ポンドのインド人事務員だ!」 と大興奮している様子を目撃しています。
神様の許可をもらってイギリスへ

海を渡ることは大きな罪だった
当時のヒンドゥー教では、海を渡ることは「身分を失う」重大な罪でした。
ラマヌジャンは信仰している女神ナーマギリに相談するため、お寺で3日間眠りました。
するとお母さんが不思議な夢を見ました。 女神ナーマギリが現れて、「息子がヨーロッパ人に囲まれている姿」を見せ、 「もう邪魔をしてはいけない」と言ったのです。
この神様のお許しを得て、1914年3月17日、ついにラマヌジャンは船でイギリスへ向かいました。
イギリスでの栄光と苦しみ
数学の楽園での共同研究
ケンブリッジ大学に着いたラマヌジャンを待っていたのは、数学史上最も美しい友情でした。
ハーディ教授は後に言いました: 「ラマヌジャンとの出会いは私の人生で唯一のロマンチックな出来事だった」
二人の研究はすぐに成果を出しました。
例えば「分割数」の研究。 これは、ある数を足し算で表す方法が何通りあるかという問題です。
4の場合:
- 4
- 3+1
- 2+2
- 2+1+1
- 1+1+1+1
5通りあるので、4の分割数は5です。
大きな数になるとめちゃくちゃ難しいのに、ラマヌジャンとハーディは美しい公式で一瞬で答えを出せるようにしたんです!
タクシー番号1729の有名な話
病院のラマヌジャンを見舞ったハーディが言いました。 「タクシーの番号が1729だった。つまらない数字だね」
するとラマヌジャンは即座に: 「いいえ、とても面白い数です。2つの立方数の和として2通りで表せる最小の数です」
つまり:
- 1³ + 12³ = 1729
- 9³ + 10³ = 1729
病気でも瞬時に数の特徴を見抜く天才ぶりに、ハーディは驚きました。 この話は今でも「タクシー数」という数学用語になっています。
戦争、病気、そして孤独
第一次世界大戦が始まり、食べ物が不足しました。
厳格な菜食主義者だったラマヌジャンは、インドの食材が手に入らず、栄養失調になってしまいます。 結核と診断されました(実際は肝臓の病気だったようです)。
孤独と病気に苦しみ、一度は地下鉄に飛び込もうとしたことも… でも、数学への情熱だけは消えませんでした。
最後まで数学と共に生きた

栄光と帰国
1918年、病床にありながらロンドン王立協会会員に選ばれました。 インド人として2人目、史上最年少の一人でした。
1919年3月、暖かいインドに帰ることに。 妻ジャナキへの最初の言葉は「君を連れて行っていたら、病気にならなかったのに」でした。
32歳の早すぎる死
インドに戻ってからも数学を続けました。 死の4日前まで計算を続け、最後の手紙でハーディに「モック・シータ関数」という、100年後の今でも完全には理解されていない神秘的な関数について書き送りました。
1920年4月26日、わずか32歳で亡くなりました。
ノートに残された宝物
56年後に見つかった「失われたノート」
1976年、アメリカの数学者が、ケンブリッジ大学の図書館で驚きの発見をしました。
焼却処分寸前の箱の中から、ラマヌジャンのノート138ページを見つけたんです!
そこには600個以上の数式が、証明なしで並んでいました。
40年かけて証明された天才の直感
ある教授は、人生の40年以上をラマヌジャンのノートの証明に捧げました。
驚くことに:
- 3300個の公式のうち、間違いはたった10個(0.3%)
- 半分以上が全く新しい発見
現在も世界中の数学者が彼のノートを研究し続けています。
現代に生きるラマヌジャンの数学
ブラックホールの研究に使われている!
信じられますか? 100年前にラマヌジャンが発見した「モック・シータ関数」が、今、ブラックホールの研究に使われているんです!
最先端の物理学でも、彼の数式が重要な役割を果たしています。
インターネットの安全を守る
ネットショッピングやSNSの安全を守る暗号技術にも、ラマヌジャンの数学が使われています。
彼の円周率の公式は、コンピューターで円周率を計算する最速の方法の一つ。 2011年には、この公式で10兆桁の円周率が計算されました!
AIがラマヌジャンから学んでいる
「ラマヌジャン・マシン」というAIプログラムが、彼の手法を真似て新しい数学の公式を発見しようとしています。 コンピューターが彼の「直感」を学んでいるんです。
インドの国民的英雄として

12月22日は「国民数学の日」
2012年、インド政府はラマヌジャンの誕生日を「国民数学の日」に制定。 切手も発行され、生家は博物館になりました。
若い数学者への賞
32歳未満の数学者に贈られる「ラマヌジャン賞」(賞金約100万円)があります。 発展途上国の若い才能を支援しています。
無限への旅は続く
妻のジャナキは、夫の死後74年間生き、最後まで誇りを持って語りました。
「他の人が100まで数える間に、私の夫は無限を超えていった」
ラマヌジャンにとって数学は、神様と対話する言葉でした。
数学は難しいと思うかもしれません。
でも、身の回りの数字の中に、宇宙の秘密が隠れているかもしれません。
どこに生まれても、どんな環境でも、情熱と才能があれば世界を変えることができる。
ラマヌジャンの物語は、そんな希望を私たちに教えてくれるのです。
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