「それでも地球は動く」——この言葉を聞いたことはありませんか?
1633年、一人の老科学者がローマの法廷にひざまずきました。
彼の名はガリレオ・ガリレイ。
「地球が太陽の周りを回っている」と主張したことで、カトリック教会から異端の疑いをかけられたのです。
この記事では、科学と宗教の対立として語られることの多い「ガリレオ裁判」について、その背景から結末、そして現代への影響までをわかりやすく解説します。
ガリレオ裁判の概要
ガリレオ裁判とは、17世紀のイタリアで行われた宗教裁判のことです。
天文学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)が地動説を支持したとして、ローマ・カトリック教会の異端審問所に訴えられました。
裁判は1616年と1633年の2回行われています。
特に1633年の裁判が有名で、ガリレオは「異端の強い疑いあり」と判定され、終身禁固の刑を言い渡されました。
実際には牢獄に入れられることはなく、自宅での軟禁という形になりましたが、この裁判は「科学が宗教に弾圧された象徴」として長く語り継がれることになります。
裁判の背景:なぜガリレオは訴えられたのか
天動説と地動説の対立
当時のヨーロッパでは、「地球が宇宙の中心にあり、太陽や惑星がその周りを回っている」という天動説が常識でした。
この考え方はギリシャの哲学者アリストテレスや天文学者プトレマイオスに由来し、聖書の記述とも合致すると考えられていたんですね。
ところが1543年、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスが『天球回転論』を出版。
「実は地球が太陽の周りを回っているのでは?」という地動説を提唱しました。
この本は当初、教会からそれほど問題視されませんでした。
しかし17世紀に入ると、状況が変わります。
ガリレオの登場と望遠鏡
1609年、ガリレオは自作の望遠鏡を夜空に向けました。
そこで彼が見たものは、それまでの常識を覆すものばかりでした。
月には山やクレーターがある。
木星には4つの衛星が回っている。
金星には満ち欠けがある。
これらの観測結果は、天動説では説明しにくいものでした。
ガリレオは次第に地動説を支持するようになり、その主張を公にしていきます。
第一次裁判(1616年)
1615年、ドミニコ会の修道士がガリレオを異端として告発しました。
翌1616年、ローマの検邪聖省(かつての異端審問所)で審議が行われます。
この時は、ガリレオ自身が有罪とされることはありませんでした。
ただし、ベラルミーノ枢機卿から「地動説を事実として主張してはならない」と警告を受けています。
また、コペルニクスの『天球回転論』も「修正されるまで」という条件付きで禁書目録に入れられました。
裁判の経緯:1633年に何が起きたのか
『天文対話』の出版
1623年、ガリレオにとって追い風が吹きます。
かつての友人であり支援者だったマッフェオ・バルベリーニ枢機卿が、教皇ウルバヌス8世として即位したのです。
新教皇の許可を得て、ガリレオは1632年に『天文対話』を出版しました。
この本は、天動説と地動説について3人の登場人物が議論するという対話形式で書かれています。
問題は、天動説を擁護する登場人物「シンプリチオ」の描かれ方でした。
「シンプリチオ」はイタリア語で「頭の単純な人」という意味。
しかも、この人物が教皇ウルバヌス8世の意見を代弁していると噂されたのです。
教皇は激怒しました。
かつての友人に侮辱されたと感じたんですね。
ローマへの召喚
1632年10月、フィレンツェの異端審問官がガリレオの自宅を訪れ、ローマへの出頭を命じました。
当時ガリレオは68歳。
病気がちで長旅は体に堪えましたが、教皇は「出頭しなければ鎖につないで連行する」と厳しく命じます。
1633年2月13日、ガリレオは23日間かけてローマに到着。
トスカーナ大公が用意したフィレンツェ大使館に滞在しながら、裁判の開始を待つことになりました。
審問の開始
1633年4月12日、主席審問官ヴィンチェンツォ・マクラーノによる尋問が始まりました。
焦点となったのは、1616年の警告に違反したかどうかです。
バチカンの記録には、当時ガリレオが「地動説をいかなる形でも教えてはならない」と命じられたとする文書がありました。
ところがガリレオは、ベラルミーノ枢機卿から受け取った証明書を提示します。
そこには「地動説を事実として主張してはならない」としか書かれていませんでした。
この食い違いは裁判の大きな争点となりましたが、結局ガリレオは不利な立場に追い込まれていきます。
有罪判決
1633年6月22日、ローマのミネルヴァ修道院で判決が言い渡されました。
ガリレオは「異端の強い疑いあり」と判定され、以下の刑が科されます。
- 『天文対話』の出版禁止
- 検邪聖省の定める期間の投獄
- 3年間にわたり毎週、7つの悔罪詩編を唱えること
ガリレオは白い悔悛服を着てひざまずき、用意された文章を読み上げて地動説を放棄しました。
裁判の結果:その後のガリレオ
自宅軟禁の日々
判決の翌日、刑は減刑されました。
ガリレオは牢獄ではなく、トスカーナ大公の別邸、その後シエナ大司教の邸宅、最終的にはフィレンツェ郊外アルチェトリの自宅での軟禁となります。
実は裁判中も、ガリレオは一度も本当の牢獄に入れられていません。
トスカーナ大使館や教皇庁の聖職者用宿舎など、比較的快適な場所で過ごしていました。
食事もトスカーナ大使館から届けられていたほどです。
研究は続いた
軟禁中もガリレオは研究を続けました。
1638年には『新科学対話』を執筆。
物体の落下運動についての研究をまとめたこの本は、オランダで出版されました。
イタリアでは事実上出版できなかったため、「原稿が何者かによって持ち出され、勝手に印刷された」という設定にしたのです。
最期
1642年1月8日、ガリレオはアルチェトリの自宅で亡くなりました。
77歳でした。晩年は視力をほぼ失っていたとされています。
軟禁のまま許されることなく、カトリック教徒として葬ることも当初は認められませんでした。
正式な埋葬が許可されたのは、死後約100年経った1737年のことです。
諸説:「それでも地球は動く」は本当か
有名な言葉の出典
ガリレオ裁判といえば、「Eppur si muove(それでも地球は動く)」という言葉が有名です。
判決後、退廷する際にガリレオがつぶやいたとされています。
しかし、この話には根拠がありません。
この言葉が初めて記録に登場したのは、ガリレオの死から100年以上後の1757年。
イタリア人作家ジュゼッペ・バレッティの著書『The Italian Library』でした。
バレッティの記述には多くの誤りが含まれており(「6年間投獄された」「拷問を受けた」など)、信頼性に欠けます。
伝説が広まった理由
1911年、ベルギーで「牢獄のガリレオ」を描いた17世紀の絵画が発見されました。
絵の中には「E pur si muove」の文字が描かれていたのです。
この発見により、伝説は再び注目を集めました。
しかし近年の研究では、この絵画自体が19世紀に制作されたものである可能性が指摘されています。
ガリレオの本心
審問官の前で「それでも地球は動く」と言うことは、自殺行為に等しいものでした。
「再犯者」として火刑に処される可能性があったからです。
ただ、ガリレオが心の中で地動説を信じ続けていたことは間違いありません。
軟禁中に執筆した『新科学対話』がその証拠です。
現代への影響
バチカンによる見直し
ガリレオ裁判は、長く「科学と宗教の対立」の象徴として語られてきました。
1979年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はこの問題に取り組むことを表明。
1981年にはガリレオ事件調査委員会が設置され、11年にわたる調査が行われました。
1992年10月31日、教皇はバチカンで演説を行い、裁判から約360年を経て、教会側の誤りを公式に認めました。
教皇は「当時の神学者たちは聖書の記述を文字通りに解釈しすぎた」と述べ、ガリレオへの処分が誤った判断であったことを認めています。
科学史における意義
ガリレオ裁判は、近代科学の夜明けを象徴する出来事です。
この裁判の後も、地動説を支持する科学者は増え続けました。
17世紀後半にはニュートンが万有引力の法則を発見し、地動説は科学的に確立されていきます。
フランスの哲学者デカルトは、ガリレオ裁判の報を聞いて自著の出版をためらったと記しています。
それほど、この裁判は当時のヨーロッパに大きな衝撃を与えたのです。
まとめ
- ガリレオ裁判は、1633年にローマで行われた宗教裁判
- 地動説を支持したガリレオは「異端の強い疑いあり」と判定された
- 終身禁固の判決を受けたが、実際は自宅軟禁となった
- 「それでも地球は動く」は後世の創作である可能性が高い
- 1992年、バチカンは公式に教会の誤りを認めた
ガリレオ裁判は単純な「科学vs宗教」の図式では語り切れません。
当時の政治状況、教皇との個人的な対立、聖書解釈をめぐる神学論争など、さまざまな要因が絡み合っていました。
それでも、この裁判が科学史に刻んだ教訓は重要です。
「権威が真実を決めるのではなく、観察と実験が真実を明らかにする」——ガリレオが生涯をかけて示したこの姿勢は、現代科学の礎となっています。
ガリレオ裁判の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1564年 | ガリレオ・ガリレイ、ピサで誕生 |
| 1609年 | 望遠鏡を改良し天体観測を開始 |
| 1610年 | 『星界の報告』を出版、木星の衛星を発見 |
| 1616年 | 第一次裁判。ベラルミーノ枢機卿から警告を受ける |
| 1623年 | 友人のバルベリーニ枢機卿が教皇ウルバヌス8世に即位 |
| 1632年 | 『天文対話』を出版 |
| 1633年2月 | ローマへ召喚される |
| 1633年4月 | 異端審問所での尋問開始 |
| 1633年6月22日 | 有罪判決。終身禁固(後に自宅軟禁に減刑) |
| 1638年 | 『新科学対話』をオランダで出版 |
| 1642年 | アルチェトリの自宅で死去(77歳) |
| 1737年 | 正式な埋葬が許可される |
| 1835年 | 『天文対話』が禁書目録から削除される |
| 1979年 | 教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオ事件の再検討を表明 |
| 1992年 | バチカンが教会の誤りを公式に認める |


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