幕末の激動期、150万人が暮らす江戸の町を戦火から救った人物がいます。
それが、幕府側の全権代表として西郷隆盛と交渉し、江戸城無血開城を実現した勝海舟(かつかいしゅう)です。
貧乏旗本の出身でありながら、日本初の太平洋横断を果たし、近代海軍の礎を築いた彼の生涯は、今なお多くの人を惹きつけています。
この記事では、勝海舟の生い立ちから晩年に至るまでを、一次史料・学術資料に基づいて詳しく解説します。
概要
勝海舟は文政6年(1823年)、江戸生まれの幕臣です。
通称は麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)で、のちに安芳(やすよし)と改名しました。
「海舟」は号(こう)であり、佐久間象山から贈られた額「海舟書屋」に由来するとされています。
剣術と蘭学の両方を修め、1860年(万延元年)には咸臨丸(かんりんまる)で日本人として初めて太平洋を横断しました。
幕末には神戸海軍操練所を設立して坂本龍馬らの人材を育て、1868年(慶応4年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)では西郷隆盛との交渉で江戸城の無血開城を実現します。
明治政府でも要職を歴任し、1899年(明治32年)に死去しました(享年77歳)。
勝海舟とはどんな人物か
勝海舟を一言で表すなら、「時代の枠を超えた実務家」とでも言うべき人物です。
幕府の家臣でありながら、薩摩・長州の志士たちと早くから交流し、倒幕後の新政府にも積極的に協力しました。
旗本という身分にこだわらず、優秀な人材であれば出自を問わず登用すべきという考えを持ち、その考えを実践しました。
江戸っ子らしいさっぱりとした性格で、歯切れのよい物言いで知られています。
一方で人情に厚く、かつての主君・徳川慶喜の赦免に奔走したり、西南戦争(せいなんせんそう)で賊軍の汚名を着せられた西郷隆盛の名誉回復にも尽力しました。
勝の思想は、幕府への忠節よりも「日本という国」を第一に置くものでした。
生い立ちと青年期
貧乏旗本の家に生まれる
勝海舟は文政6年1月30日(1823年)、江戸・本所(現在の墨田区両国)で生まれました。
父は勝小吉(かつこきち)。
小吉は石高41石ほどの下級旗本で、「かつ小吉自伝(夢酔独言)」に自ら「乱暴者」と書き残すほどの豪快な人物でした。
勝家は旗本とはいえ役職のない「小普請(こぶしん)」組であり、暮らしぶりは決して裕福ではありませんでした。
剣術と蘭学の習得
10代のころから剣術家・島田虎之助(しまだとらのすけ)に師事し、直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を受けるほどの腕前になります。
師の勧めで西洋兵学にも志し、蘭学者・永井青崖(ながいせいがい)のもとでオランダ語を学び始めました。
この時期の有名なエピソードとして、蘭和辞典「ドゥーフ・ハルマ」の書き写しがあります。
当時高価で入手困難だったこの辞典を借り受け、1年をかけて2部書き写したとされています。
1部は自分用、もう1部は売却するためでした。
この逸話は、勝の学問への強い意欲を示すものとして広く知られています。
弘化2年(1845年)ごろから永井青崖のもとでオランダ語を学び始め、嘉永3年(1850年)には赤坂に蘭学の私塾「氷解塾(ひょうかいじゅく)」を開き、兵学・蘭学を教えました。
また、この時期に佐久間象山(さくましょうざん)と交流を深め、象山の書斎に掲げられていた「海舟書屋」という額を贈られたことが、のちの号「海舟」の由来となりました。
ペリー来航と幕府への登用
嘉永6年(1853年)、ペリー提督の率いる黒船が浦賀に来航します。
幕府は身分を問わず「海防意見書」を広く募集しました。
勝が提出した意見書は、身分にとらわれない人材登用や軍艦建造の必要性を訴える内容で、老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)の目に留まります。
この縁から、幕府の洋学研究機関「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」に出仕し、さらに安政2年(1855年)、長崎に設立された「長崎海軍伝習所」に1期生として入所しました。
オランダ海軍士官から直接航海術・砲術・造船術を学んだ経験は、その後の勝の活躍の基盤となります。
咸臨丸での太平洋横断
日本人初の太平洋横断
万延元年(1860年)、勝海舟の名を広く知らしめた出来事が起こります。
日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府は使節団をアメリカへ派遣することになりました。
この使節団に随行する形で、軍艦「咸臨丸」(かんりんまる)がアメリカへ向かうことになり、勝は実質的な艦長として乗船します。
咸臨丸の航海は困難を極めました。
太平洋の荒波に幕臣の多くが船酔いで動けなくなる中、勝は37日間にわたる航海を指揮し、無事にサンフランシスコへと到達します。
これは日本人による初めての太平洋横断として記録されています。
なお、この航海には福沢諭吉も通訳として乗船していましたが、のちに福沢は勝の江戸城開城の判断を「痩我慢(やせがまん)の説」で批判することになります。
アメリカ視察の影響
アメリカ滞在中、勝は近代的な政治・経済・軍事の仕組みをその目で見聞しました。
この体験は彼の思想に大きな影響を与え、帰国後の海軍強化への情熱をさらに深めることになります。
帰国後、勝は軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ)に昇進し、幕府の近代海軍創設に取り組みます。
神戸海軍操練所と坂本龍馬
海軍操練所の設立
文久2年(1862年)に軍艦奉行並となった勝海舟は、翌文久3年(1863年)、神戸への「神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんしょ)」設置を幕府に認められ、元治元年(1864年)に開設します。
この施設の特徴は、幕臣だけでなく諸藩の志士にも門戸を開いたことにあります。
身分や藩を超えた人材の結集を目指した、当時としては革新的な方針でした。
坂本龍馬との出会い
この時期、勝のもとを訪れた志士の一人に坂本龍馬がいます。
文久2年(1862年)12月、土佐藩を脱藩した龍馬は最初、勝を斬ろうとして訪問したと伝えられています。
しかし勝の話を聞いて感服し、その場で弟子入りを申し込んだとされています。
この逸話は史料での完全な裏付けは難しい部分もありますが、龍馬が勝の門人となり海軍操練所で学んだことは史実として確認できます。
龍馬はこの出会いを通じて開国・近代化の重要性を学び、のちの薩長同盟実現へとつながる思想の基礎を築きました。
勝にとっても龍馬は「見込みのある人物」として高く評価された弟子の一人でした。
操練所の閉鎖と蟄居
元治元年(1864年)の禁門の変(きんもんのへん)を経て、時流は倒幕へと傾いていきます。
操練所が脱藩浪人を匿っているとして保守派から問題視され、勝は元治元年(1864年)に軍艦奉行を罷免されます。
神戸海軍操練所も閉鎖を余儀なくされ、勝は約2年間の蟄居生活を送りました。
この蟄居期間中、勝は西郷隆盛・木戸孝允(きどたかよし)らと交流を続け、のちの交渉の礎となる人脈を維持しました。
江戸城無血開城
戊辰戦争と勝の登用
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見(とばふしみ)の戦いで幕府軍は新政府軍に敗北します。
将軍・徳川慶喜は海路で江戸へ帰還し、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎しました。
新政府軍は東海道・東山道・北陸道の三方向から江戸へ向けて進軍し、3月15日を江戸城総攻撃の日と決定します。
慶喜は主戦論を唱える家臣たちを退け、全権を勝海舟と大久保一翁(おおくぼいちおう)に委ねました。
勝が選ばれた理由の一つは、薩摩・長州をはじめとする新政府側の実力者たちと築いてきた幅広い人脈でした。
交渉への準備
勝は江戸総攻撃を回避するため、複数の手を同時に打ちます。
まず山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府(すんぷ、現・静岡市)の西郷隆盛のもとへ派遣し、徳川慶喜の恭順の意思と開城の用意があることを伝えさせました。
3月9日に山岡は西郷との会談を果たし、これが3月13・14日の勝・西郷会談への布石となります。
また、14代将軍正室の天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)や、皇女和宮(かずのみや)を通じて、新政府への恭順の意を伝える工作も行いました。
勝・西郷会談
慶応4年3月13日・14日(1868年4月5日・6日)、田町(東京都港区三田)の薩摩藩江戸藩邸において、勝海舟と大総督府下参謀・西郷隆盛の会談が行われました。
勝と西郷は、元治元年(1864年)に大坂で初めて会って以来の旧知の仲でした。
西郷隆盛は、勝から幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示されており、勝を政治的な恩人として尊敬していたとされています。
なお、創作や映像作品では勝と西郷の2人が1対1で会談したように描かれることが多いですが、実際には徳川家側から大久保一翁・山岡鉄舟、東征軍側から村田新八(むらたしんぱち)・桐野利秋(きりのとしあき)らも同席していたと考えられています(Wikipediaの江戸開城の項目、及び静岡県立図書館の一覧資料より)。
2日間の交渉を経て、西郷は江戸総攻撃の中止を決断し、江戸城開城の条件についての合意が成立しました。
江戸城の開城
会談から約1か月後の慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は新政府に引き渡されました。
一滴の血も流さない「無血開城」の実現です。
推定150万人もの市民が暮らす江戸の町が、戦火に焼かれる危機は回避されました。
勝が交渉の場に臨んだ際、江戸を焦土にしてでも戦い続けようとする幕府内の強硬派の声も根強かった中での決断でした。
この無血開城は、幕末の政治史における最も重要な出来事の一つとして語り継がれています。
明治政府での活動
要職の歴任
明治維新後、勝は旧幕臣たちとともに静岡へ移りますが、新政府からたびたび協力を求められ、東京に出ることも多くなります。
旧幕臣の代表格として、外務大丞(がいむたいじょう)・兵部大丞(ひょうぶたいじょう)・参議兼海軍卿(さんぎけんかいぐんきょう)・元老院議官(げんろういんぎかん)など要職を歴任しました。
明治17年(1884年)には伯爵(はくしゃく)に叙されています。
ただし、勝は辞退や短期間での辞職を繰り返したことでも知られており、明治政府との関係は複雑なものでした。
明治7年(1874年)の台湾出兵への不満を理由に職をすべて辞したこともあります。
徳川慶喜と西郷隆盛への尽力
明治政府への貢献の一方で、勝は旧主君・徳川慶喜の名誉回復にも奔走しました。
長年にわたる働きかけの結果、慶喜は明治30年(1897年)に赦免を受け、明治35年(1902年)には公爵(こうしゃく)の爵位を得ました。
また、明治10年(1877年)の西南戦争で賊軍の汚名を着た西郷隆盛に対しても、勝は名誉回復に向けて天皇への働きかけを続けました。
明治31年(1898年)に完成した上野の西郷隆盛銅像も、勝の支援なしには実現しなかったとされています。
勝海舟の思想と人物像
開国論と東アジア観
勝海舟の政治思想の根幹にあるのは、開国による富国強兵でした。
貿易を通じて国力を高め、欧米列強と対等に渡り合える近代日本を建設することを目指しました。
外交面では日本・朝鮮・清の東アジア三国が連携すべきという構想を持ち、当時としては先進的な視点を持っていたとされています。
また、身分に関係なく優秀な人材を政治・軍事の場に活用すべきという考えは、神戸海軍操練所での門戸開放にそのまま現れています。
幕臣でありながら幕府にこだわらなかった人物
勝海舟の最も際立った特徴は、幕府の家臣でありながら「日本という国」のために幕府の終焉を受け入れた点にあります。
「オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった」という発言が『氷川清話』(勝海舟著、江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫)に記録されています。
この姿勢は、のちに福沢諭吉から「痩我慢の説」で厳しく批判されることにもなります。
徹底抗戦せずに降伏したことを武士道に反するとした福沢の批判に対して、勝は反論を著したとされています。
晩年と死
晩年、勝は洗足池(東京都大田区)のほとりに邸宅「千束軒(洗足軒)」を構え、静かな余生を送りました。
この地には今もなお、西郷隆盛の顕彰碑と、両者の江戸城無血開城の偉業を称えた詩碑が残っています。
明治32年(1899年)1月19日、自宅で脳溢血(のういっけつ)のため死去しました。
享年77歳(数え年)。
臨終に際して「コレデオシマイ」と語ったとする逸話が広く伝わっていますが、この発言の詳細な経緯については資料によって記述が異なります。
勝海舟の主な功績まとめ
| 年 | 出来事 | 意義 |
|---|---|---|
| 1853年(嘉永6年) | 海防意見書の提出 | 幕府への登用のきっかけ |
| 1855年(安政2年) | 長崎海軍伝習所に入所 | 近代海軍の基礎を学ぶ |
| 1860年(万延元年) | 咸臨丸で太平洋横断 | 日本人初の太平洋横断を達成 |
| 1864年(元治元年) | 神戸海軍操練所の開設 | 坂本龍馬ら人材を育成 |
| 1868年(慶応4年) | 西郷隆盛との会談・江戸城無血開城 | 江戸の戦火を防ぎ、150万人の命を守る |
| 1868年〜 | 明治政府での要職歴任 | 旧幕臣と新政府の橋渡し役 |
| 1897年 | 徳川慶喜の赦免に貢献 | 旧主君の名誉回復 |
| 1898年 | 西郷隆盛銅像の建立を支援 | かつての盟友への義理を果たす |
まとめ
勝海舟は、幕府の家臣でありながら常に「日本の未来」を考え続けた人物でした。
日本初の太平洋横断、神戸海軍操練所での人材育成、そして江戸城無血開城という3つの偉業は、彼の名を歴史に永遠に刻みました。
特に江戸城無血開城は、戦火を回避した政治的決断として世界的にも高く評価されています。
幕末を生きた多くの志士たちが藩や派閥の論理に縛られる中、勝は身分・藩・イデオロギーを超えた視点を持ち続けました。
その姿は、師と仰いだ坂本龍馬にも大きな影響を与えました。
また、西郷隆盛との深い信頼関係は、歴史を動かした友情の象徴として語り継がれています。
幕末・明治という激動の時代に、幕府側から日本の近代化を支えた勝海舟の存在は、今も私たちに多くのことを教えてくれます。
参考情報
関連記事
この記事で参照した情報源
一次資料・準一次資料
- 勝海舟著、江藤淳・松浦玲編『氷川清話』(講談社学術文庫、2000年)
- 勝海舟自身の談話を再編集したもの。本人の言葉・思想を直接確認できる資料
- 小吉(勝小吉)著『夢酔独言(むすいどくげん)』
- 勝海舟の父・小吉が記した自伝。勝家の生活環境を知ることができる一次資料
学術・信頼できる情報源
- Wikipedia「勝海舟」 – 基本情報の確認・出典の照合に使用
- Wikipedia「江戸開城」 – 無血開城の経緯・会談の詳細(慶応4年3月13・14日の会談同席者など)
- 静岡県立図書館「西郷・山岡会見記念碑」解説 – 山岡鉄舟の下交渉について
- 国立国会図書館「勝海舟」人物編 – 基本経歴の確認
参考になる外部サイト
- ジャパンナレッジ「勝海舟」 – 国史大辞典・世界大百科事典による解説
- 刀剣ワールド「勝海舟の歴史」 – 生涯の経緯


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